葬儀

 今月の始めに祖母が息をするのを止めた。これで私の祖父母が全て私の祖父母としての肉体を失った。 

日曜に祖母の通夜前に用を済ませ通夜の会場に出向くと、姪にかりゆしを着ている事を見咎められ「バカじゃないの。」と言われた。百寿を目前にした祖母の葬儀に喪服なんて「バッカじゃないの。」と言いたかったが喪服を着る歳でも無い姪っこには言わなかった。その後白いシャツに着替えた自分がバカだと思う。

 坊主は下手な経を読み、法要も省略だらけ、読経代は物価非スライド性で永年インフレ。そんな時代には紋付袴では無くアングロサクソンの猿真似喪服がお似合いだと思う。焼き場では髪が伸びた坊主もいた。まあ坊主が坊主である必要はない。葬式を執り行う坊主が坊主じゃないのに参列者が文句を言われる筋合いは無い。

 葬儀を終え家に帰り、ふとCDの整理をしようと色々なCDをみる。中学生の頃に買った物や学生の頃に買った物、友人がくれた物を見て最近聞かなくなったなと思う。昔は同じCDを飽きもせず繰り返し聞いていた。今は歌を聴く事も無いが、時折ラジオで聞く曲は下らないなと思う。

 音楽も人の言葉も自分の存在を主張する、そこに善悪は無い。自分が善と思う物があるだけ。人が死ぬ事を忌むのも、長寿を慶ぶのもその主体の思いに過ぎない。

 埋葬許可なんて物がある、人が死ぬと死亡診断書なんて物が必要になる。医者の唯一の専売特許。下手に死ぬと人の死が国家の名の下穢される。人の尊厳ある死は医師の支配の元でのみ。

 人が死んで漸く国家や社会という呪縛から解き放たれるのにそこにまで介入する。

 人が生きながら人を食い物にする国家や社会から自由になる事。これがブッダやキリストといった救世主の教え。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。