上野原

再び鹿児島へ。

上野原遺跡へ久しぶりに行った。すっかり様変わりをし20年前に行っていた時とは風景が違っている。

少し前に諏訪の縄文遺跡へ行ったが、上野原遺跡と尖石遺跡は同じ様で違う。八ヶ岳と霧島連山は何となく似ている様で八ヶ岳は尖、霧島は丸。おそらく種族も違っていた事だろう。

縄文とは何かを考えると人とは何かに結びつく、狩猟採集民と農耕民の違い。農耕民の延長にある現代人。おそらく明確な線引きは無いのでろうが、自然の動きの中で生きる人々と自然をコントロールし抗う事を考え始めた人々。私はこの点だと考える。

自分は環境の中の一部であり、野生の動物が食物を求めて移動する様に自然環境の周期

に合わせて生きる生き方。自分は環境とは独立した存在であり環境は自分に与えられた物で、好きに扱って良いと考える生き方。

自然を自分の都合の良い様に変えたいと思いながら実現できなかった人間は今日その手法を手に入れつつある。土木工事で河川の流れを変え、山を切り崩し、邪魔な虫や雑草は滅ぼし、面倒な生物の性質は遺伝子を変えて無くし自分に都合の良い性質を持たせる。近年目覚ましい進化を遂げる技術であるが、これは人類の宿願であった。種を自分の所有物だと主張し、自分たちの都合で他の生物を絶滅させる事は当然の権利、環境からの恵みも自分の所有物だと主張するが、自分の排泄物の権利は主張しない。人間の自己意識の無限膨張。

この自己意識を抑制し生きる事を良しとした人と、抑制を解放した人。どちらが自由であるか。自己意識の無限膨張を実現した人間は他の犠牲の上に自由である。その人間の犠牲になった人間に自由は与えられない。自己意識を抑制した環境は自由な環境であるが、自己意識の無限膨張を夢見る人間には不自由である。

私は今日に伝わる自己意識の抑制を続けてきた人々の生き方が好きである。今年は北海道から鹿児島までその躍動を感じた一年であった。

縄文を蹴散らし跋扈した自己意識がこの地球を破壊しつつある、しかし同時に縄文の血脈の打ち震える鼓動を感じる。鼓動が震えとなり自由を取り戻す。

桜島も霧島もマグマの躍動を肌で感じる、畏れつつ抱く生の躍動。

和の医療、人と自然が和の調べを取り戻す。それが癒の原点だと考える。