蜂刺され

 草刈り中に左手に痛みを感じた。飛び石にしては長いなと思いみてみると多分アシナガバチ。即座に振り払いその場を離れる。手袋をとると刺し口が見える。丁度三間の辺り。押しても何も出てこずポイズンリムーバー買っておけばよかったと後悔。

 家に戻り熱湯に浸けているとジンジンしてきたのでpH 14のアルカリ液を刺し口に垂らす。汗を流すのに湯を使い、その後コスモスのH1モードを照射すると時々ジンジンする。炎症を抑える筈なのにおかしいなと思いつつ、Apisを一粒飲んだ。良く良くみるとルビーが光る時に痛みが増す。これはダメだと思い真珠を腫れてきつつある場所に当て振動を与える。これは少し痛みが引く。まあしょうがないと思いモリンガバームを塗り、ガスを吸い炎症を抑える。

 この時点で刺し口は見えなくなってしまった。穴が有った方が良いのにと思いながら大腸に冷えが有ってそれを治そうとしているのかも、三焦を補おうとしているのかもしれない

 大して腫れないしまあいいか。蜂は殺してしまったがこの場所を刺された事は何か意味があるかもしれない。気がつくと草刈り中に感じた右股関節の違和感が消えている。万事塞翁が馬。蜂さんありがとう。

 山口醫院はアナフィラキシー起こさなければ蜂刺されも対応可。この文章理解できる人は変人です。

葬儀

 今月の始めに祖母が息をするのを止めた。これで私の祖父母が全て私の祖父母としての肉体を失った。 

日曜に祖母の通夜前に用を済ませ通夜の会場に出向くと、姪にかりゆしを着ている事を見咎められ「バカじゃないの。」と言われた。百寿を目前にした祖母の葬儀に喪服なんて「バッカじゃないの。」と言いたかったが喪服を着る歳でも無い姪っこには言わなかった。その後白いシャツに着替えた自分がバカだと思う。

 坊主は下手な経を読み、法要も省略だらけ、読経代は物価非スライド性で永年インフレ。そんな時代には紋付袴では無くアングロサクソンの猿真似喪服がお似合いだと思う。焼き場では髪が伸びた坊主もいた。まあ坊主が坊主である必要はない。葬式を執り行う坊主が坊主じゃないのに参列者が文句を言われる筋合いは無い。

 葬儀を終え家に帰り、ふとCDの整理をしようと色々なCDをみる。中学生の頃に買った物や学生の頃に買った物、友人がくれた物を見て最近聞かなくなったなと思う。昔は同じCDを飽きもせず繰り返し聞いていた。今は歌を聴く事も無いが、時折ラジオで聞く曲は下らないなと思う。

 音楽も人の言葉も自分の存在を主張する、そこに善悪は無い。自分が善と思う物があるだけ。人が死ぬ事を忌むのも、長寿を慶ぶのもその主体の思いに過ぎない。

 埋葬許可なんて物がある、人が死ぬと死亡診断書なんて物が必要になる。医者の唯一の専売特許。下手に死ぬと人の死が国家の名の下穢される。人の尊厳ある死は医師の支配の元でのみ。

 人が死んで漸く国家や社会という呪縛から解き放たれるのにそこにまで介入する。

 人が生きながら人を食い物にする国家や社会から自由になる事。これがブッダやキリストといった救世主の教え。