人は何故自分の思想の自由を放棄するのか?これは子供の頃からの命題の一つでした。何故学校に行かなければいけないのか?何故教科書読めばわかるのに無駄な事ばかり喋る教師の話を聞かなければいけないのか?何故決められた道を歩いて帰らねければならないのか?不合理な事ばかり。家でも何故ブロッコリーを食べなければいけないのか?何故フニャフニャの卵を食べなければいけないのか?何故固すぎる卵が出てくるのか?そんな疑問だらけ。
お陰で学校では授業を聞かない、宿題はしない、気分が乗った時しかランドセルの中身を変えない事を続けました。ランドセル忘れて学校に行った事も。名札も嫌いだった、今も嫌いだが何故自分の名前を触れ回って歩かないといけないのか。俺は選挙の立候補者ではない。そんな全てが嫌いだった時から自由を保つ事が大事であった。
私の自由を奪おうと大人達は一生懸命だった。下らない宿題をやれだとか毎日ランドセルの中身を入れ替えろだとか。しかし隣の席の子に教科書を見せて貰ったり消しゴムを借りたりして助けられていた。大人という自分とは違う次元の存在を前に自由を手放す事を学んでいく同級生を傍目に出来るだけ好きにした。
人が自分の生きていると考えている場所よりも高位な場所にいると思う存在を設定した時に人は自由を手放す。神などという人よりも遥かに貴い存在があると設定したした時点で神の前で自由を手放す。牛を食べるなとか豚を食べるなとか四つ足を食べるなとか。そんな事知った事では無い。
多くの人があの人は偉い人だと言っているからその人の言う事を聞く、自由の放棄である。その人間は本当に偉いのか?私が子供の頃に見た様に虚像ではないのか?その問いを発し続ける事が自由の確立である。
自由と民主主義陣営などと偉そうに西側は言っているが、政治家や政府の言っている事を疑わずに信じているだけで自由ではない。自由とは全てを疑い自分で答えを出す事である。どんなに考える事が苦しくても考える事を手放してはならない。そこに自由が生まれるのだから。そして神と言えでも自分より偉いと考えてはいけない。もし本当に世界を創造した神がいたとしたら個々の人間など構いはしない。
人が神を創造した時に神と人という階層が生まれる。そうすると神が人間を支配するとしたら、人は何を支配するのか?動物を支配する、植物を支配する、神に近い人間が神と遠い人間を支配する。つまり農業にはすでに支配の構造が組み込まれている。
日本の歴史でも今より自由の少なった時代は多くある。なぜ好きな着物が着れないのか?何故やりたい職業に就く事ができないのか?身分がとか言われていた時代と今は違う。何故手に入れた自由を手放すのか?それも意味の無い理由で。自由平等を謳うなら意味の無い事で人の自由を奪ってはならない、そして自分の自由を手放してもならない。他人の考えなど糞食らえ。人の自由を奪う神も糞食らえ。自分で考え続ける事が最も貴い事である。