空気

 日本には空気という言葉があります。場の気とも言われますが。個人の考えではなくその場の空気が支配をしてしまう。最近では新型コロナと言われたSARS-COV2による感染症騒ぎがそうでした。多くの医師がこんな対策はおかしいと訴えていましたし、現時点での科学的知見からもおかしい物でした。それまで医学は科学的知見に基づき行うとしていた方々まで空気に押し流されてしまいました。私の様に反対にそれまで科学的知見だけでは不備があると言っていた医師が科学的知見が無いと訴える何とも面白い展開が見られたのです。空気というのはそれだけ簡単に変わってしまいます。太平洋戦争前に戦争反対派が戦後にあの時の空気ではいか仕方なかったという事も聞いたり読んだりした方も多いのではないでしょうか?

 最近はリベラル派の方が何かと気にされる一本締めや三三七拍子も日本人の空気で合うと言われています。

 是も非もなく空気というものは人に影響を及ぼします。なんとなく賛成をする空気とか、おかしいと思いながら飲み込まれてしまう空気があります。

 集団意識と言われる事もあります。個人の自意識と言われる空想をする空間の前にはこの集団意識が強固だったのです。それが現在にも残っています。

 今の日本人の病気になったら薬を飲まなければならないけど治らないと言うのも集団意識の一つです。

 ずっと飲み続けなさいは治らないの同意語です。

 個人でも空気を作り出します。よく使われる雰囲気というのもその一つです。見た目や話し方等で醸成されます。実際はわからないのに何と無く怖そうとか優しそうというのは空気から受ける印象です。

 病気が怖い、その情念を持ち続けると体内のホルモンバランスが変わります。それで病気が出来ます。病気が判明して不安になっても同じ事が起こります。

 良くそれまで元気だったのに病気が見つかったら途端に具合が悪くなったという話を聞かないでしょうか?正に病名という呪文に取り憑かれたのです。

 医者に死ぬよと言われた時に魔法がかかるのです。中世のキリスト教世界では火炙りにされるレベルの魔術です。

 私はよく元気そうと言われますがそうでもありません、日々二日酔いと戯れています。ではどうすれば病気でなくいられるか?病気だと思わなければ良いのです。少々怠くても、頭が重くても気持ちが悪くても二日酔いだと思っていれば良いのです。酒飲みの特権かもしれませんが、例え肝硬変で死のうが自分が二日酔いで良いと思っていればそれで良いのです。下手に調べて肝硬変で酒飲むなと言われて死ぬより、二日酔いが続くなと思って死んだ方がよっぽど幸せな人もいるのです。

 所詮人は自分の空想の中で生きている。他人の空想が自分の中に押し込まれることが往々にしてあります。その時代のその土地の空気という物がありそれに乗る事が好きな人も人もいれば、それを良しとしない人もいます。

 家族というのも社会というのも国家というのも言わば集団空想です。その空想が好きも嫌いも善悪ではありません。今の様な固定化された家族観がない人も国家という物を空想だにできない人もいるのです。あるという空気が漂っているからある。

 その社会の大多数が幸せならそれを全体として敢えて崩す必要はありません。それが全体の空気という物です。しかし現在では空気を操作しようとする人が多くいます。古くはナチスの宣伝省という物があり、今では多くの国や組織が持っています。つまり政府や営利企業や営利団体が自分に有利な空気を作ろうと画策をしているという事です。宗教団体までしています。顧客創造とか神になった気分かと思ってしまいますが、自分の頭の中だけでしていて欲しいと思う物が多くあります。個人までそれを行っています。自分の利得の為に人をコントロールしようとする空気が漂っているのです。

 感情を操作し空想を抱かせ、自分に都合の良い空気を作り出そうとする存在が跋扈する、一条大路じゃなかった。現代。

空想

 前に情動と情念について書きました。情念というのは頭の中で作り出す感情です。頭の中では空想という事もできます。この様に文を紡ぎ出すのも頭の中で言葉を空想するからです。

 漢字の通り空から作り出す想念です。白昼夢とかもこの一つです。子供の頃に授業中にする事もなく色々と空想をしていましたがこの空想ができると言うのは脳の中に物理的な物とは違う空間を作り出すという事です。そしてその空間を作り出すには意識が必要になります。この事が出来る様になったのは今から3千年から2千年前頃だったとされています。

 有名な話ですがニューートン卿が林檎が落ちるのを見て引力を発見したと言われます。これは彼がリンゴが木から落ちるのを元にした空想から出てきた理論です。アルキメデスがお風呂から溢れる水を見た時に閃いた、ダーウィンが様々な動物を見た事から進化論を作り出したこれらも発見と言われますが、空想の産物です。

 実際に目で見たものを頭の中で再構築しそこから理論を構築していきます。そもそも自分の目で見ている物も怪しい世界なのでそれを頭の中で再構築したものなど更に怪しい。一度は受け入れられた理論があとで間違いでしたと言うのは沢山あるのです。これらは理論を作った人も同じ分野の他の研究者も違うかもしれないと確かめられた後でも違うとなるのです。理系、文系に関わらず学者とか言われる方々は言わば空想の専門家です。今の量子力学と言われる分野は観測ができない物を扱っています。目で見えないが、ある筈の物に想いを馳せる。空想です。心理学など人の心という直接見ることも触る事も聞く事もできない物を間接的な知見から空想をして作り出しています。文学もそうです。詩を作るなど直接見ていない物を思い描いて言葉を生み出す。

 これらは空想だから嘘だとか間違っているではありません。空想ができるから人の技術も知識も進歩しているのです。しかし慎重に検討を重ねても後で違ったという事も多くあるのです。アインシュタインの一般相対性理論も今では間違いと言われています。医学でも病気の基準値はコロコロ変わります。

 天才と言われる空想の専門家でも後で理論と合わない事が見つかるのです。

 翻って私たちの様な凡人がする空想を考えてみましょう。朝起きて今日は休みの日だったら良いのにとか、寝坊して遅刻しそうだと言うのも空想です。キッチンに立ち何を飲もうかと悩むのも頭の中で空想をしています。家を出て目的地までの行程を思い描くのも空想です。道すがら学校や職場で今日ある事を考えて楽しくなるのも気が重くなるのも空想です。お昼に何を食べようかと考えるのも、料理をする時に食材と調味料の組み合わせを考えるのも空想です。

 空想が出来る様になった人間にとって多くの感情は空想から生み出されます。何か悪い事が起きた事を空想して不安に襲われたり、嫌な事を想い出して頭に血が上ったり、本当なら今頃宝くじが当たっていたのにと当たった人を羨むのも、煩わしい人間関係をどうしようと悩み恨めしく思ったり、亡くなった人の事を思い出して悲しさのあまり何で残されたのかと運命を呪ってみたり全て空想です。

 「007は二度死ぬ」という映画がありましたが普通は死ぬのは一度です。しかし生きている人の頭の中では何度でも死にます。

 空想ができる様になった事は人類の歴史の中では大きな転機となりました。しかし同時に空想ができるだけに頭の中で情念を繰り返し思い起こしそこから抜けられなくなる事もできる様になったのです。そして一度固まった情念はなかなか取り外す事が出来なくなるのです。

 太陽が動いているか地球が動いているか?正解は地球が動いているとなっていますが、両方動いています。こんな単純な事でもあれっと思う方もいると思います。これよりも人の空想の癖は頑固です。

 それまでの生きてきた環境や、時代、生まれ持った性質によってどんな空想をしやすいかは変わります。そしてその癖が病気や体調不良にも関わって来ます。

感情と病気について

 感情とは何か?何かわかっているのかわかっていないのかわからない概念です。人が何か体に影響が出る様な出来事に出会った時に感情が生まれます。目の前にお酒が出てきたら人によっては喜びでしょうし、場合によっては恐怖かもしれません。目の前で好きな食べ物を横取りされたら悲しみや怒りでしょう。目の前に好きな物を二つ出されてどちらか一つと言われたら悩むでしょう。これらは純粋な感情です。体には喜びは胸の高鳴りとして恐怖はおしっこが漏れる、悲しみは息が詰まる、怒りは腹が立つ、悩みは胃が痛むと体に変化が起こります。これらは動物にも起こります。ペットが喜んでいたり、悲しんでいたり、怒っている様子、怖がっている様子は見たことがある方も多いと思います。

 これらの感情は例えば喜ばしいことが起きたから心臓が速く動いて、嬉しいのか?嬉しいから心臓が速くなるのか?元は前者です。

 最近は知りませんが、初恋の描写にある人と出会って胸が高鳴るその反応がなぜ起きたかわからないけどこれが恋かしら?とあったりしました。人と会って心拍数が増える、それは嬉しい事。でも嬉しいとは違う気持ち。ここから皆が言う恋という概念かもしれないという憶測が生まれます。ここで大事なのは恋という概念が無ければ恋は無いという事です。人間も動物ですが、動物の雄と雌には恋はありません。相手に対して性的な刺激が起こればカップルになるのです。日本の王朝文化では相手に合わずに歌を送り合う事で恋が高じていく。言葉という概念の中で恋が生まれるという良い例だと考えられます。今でもお国柄で一瞬で性的な刺激を受けて即行動という文化もある様ですが、異国の文化です。

 少し横道にそれましたが、体の反応を脳が処理をして感情が生まれます。という事は純粋な感情は体の反応が無くなれば無くなるという事です。

 先ほど恋の話が出てきましたが、対象による胸の高鳴りも本人がいなくなれば消える筈です。しかし消えない事もある。それはもう単純な感情では無くなっているからです。体の反応から生まれた感情ではなく頭の中で生まれた思考が感情の様な物を生み、体に反応を起こす様になるのです。

 本人は目の前にいないのに頭の中で想像するだけでハラワタが煮え繰り返る。それを忘れないために臥薪嘗胆。本人は死んでいるのに悲しみで息が詰まり、苦しくなる。地面に立ってるのに高い所にいると思うと足元がすくむ。仕事を辞めようか、続けような思い悩んで胃が傷む。憧れの人が目の前にいないのに心臓が早鐘の様になり響く。

 これらは体に負担になると思いませんか?人の脳は空想ができます。そうするとその空想に体は従わされるのです。

 悲しみに息が詰まり、低酸素。身体中酸欠です。喜びで脈が速くなり血圧上がれば血管に負荷がかかります。悩んで胃がやられます。東洋医学では怒りは肝臓に恐れは腎臓に影響を及ぼします。

 動物にストレスがなくて良いなという人がいますが、人は何もない所から体に負担をかける事ができるのです。

 情動と情念と言いますが、私は情動は外からの刺激による感情、情念は中からの刺激による感情と体の変化と考えています。あなたが怖いのは現実か空想か?