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ケトジェニック

 ケトジェニックが良いか悪いか聞かれる事があります。ケトン体を代謝してエネルギーを得る事は悪い事では無いと思っています。ファスティング中はケトン体でエネルギーを得ています。

 ファスティングをすると病気が治るという事は昔から言われて来た事です。実際に良くなる人も見ていますが、これがケトン体が出た事のみの効果だとは思いません。ファスティングで効果をだす必要条件かもしれませんが、必要十分条件では無いと考えています。

 私が疑問に思っている事はどの様にしてケトン体を出すのかと長期に渡って行う事での問題点です。これは個人としての問題と人類としての問題があります。

 炭水化物を制限する事で食事をしていてもケトン体をエネルギー源にする事はできます。自分の脂肪を燃やすか、外から入れた脂肪を燃やすかです。油とタンパク質の多い食事をしていればこれらからアセチルCoAとピルビン酸を作る事でエネルギーは産生可能になります。この状態を続ける事がケトジェニックダイエットです。油の供給源は動物性と植物性の油。

 油の成分であり脂肪酸は種類によって体に負荷をかけます。タンパク質をクエン酸回路に入る物質に変えた時にも肝臓と腎臓に負荷がかかります。もちろん糖が多くても身体に負荷がかかります。全て負荷がかかるのです。生きている限り負荷はかかり続ける様になっています。

 人の栄養源として何が良いのか?鹿や牛は草を主に食べます。ネコ科のライオンやトラは肉食です。人に近い類人猿は雑食ですが、草食の割合の高い雑食です。類人猿とホモ・サピエンスの違いは生息範囲の広さです。チンパンジーやゴリラの住む熱帯から、日本では猿の住む北限である青森から遥か北、北極圏でも人は生きています。類人猿から進化したとされるホモ・サピエンスは雑食だった筈です。人でケトジェニックに近い生活をしていたのは寒帯や冷帯に近い地域に生きていた人々です。反対に菜食に近い生活をしていた人達は亜熱帯や温帯に住んでいた人たちです。肉食獣と草食獣では肉食獣の方が飢餓に強いとされます。人では寒い地域に住んでいる人と暖かい地域に住んでいる人では飢餓にさらされる期間は寒い地域の方が長いのです。同じホモ・サピエンスと言っても十把一絡げにはできません。ケトジェニックの食生活が体質に合っている人もいます。反対の人もいます。

 ケトン体が出ている状態が身体に良いとは思いますが、これを持続させるのが良いのか?これに疑問を持っています。

 ケトジェニックの問題の一つに資源の問題があります。全ての人間はケトジェニックになるべきだと言う人もいます、肉は野生もしくは牧草を食べた物、野生の魚、良質のオイルを一日100CC以上。70億人が食べる事はできません。蜘蛛の糸みたいな話です。

 資源が枯渇した時に病気になる糖質を食べるのか、人肉を食べるのか?ケトジェニックが本当に良いのならそんな未来が来るかもしれません。私は菜食なのでその未来が来る前に病死する筈です。死んで酒が飲めるかは知らないが、糠漬けと日本酒で高みの見物と決め込みたい。

 

五十歩百歩

 「ストレスがかかると良くないから食事療法は出来ない。」と言う方がいます。

 病気の原因の多くは生活習慣です。良し悪しは別として、現在使われている治療の多くは対症療法です。原因に対しては触れずに現れている現象を対象とした治療。一時的に症状は消えますが、また出てきます。当たり前です。雨漏りに床にバケツを置いても雨漏りは止まりません。

 覚醒剤中毒で体を壊し、身を持ち崩した人を見てどう思いますか?

 アルコール中毒でどす黒い顔で朝から呑んでいる人を見てどう思いますか?

 タバコをやめられなくて、会議中や移動中にイライラしている人を見てどう思いますか?

 砂糖中毒で甘いものが無いとイライラする人を見てどう思いますか?

 全て脳がストレスから解放される為に行っている事です。それも正常な方法では無く、過剰刺激をする事で。特攻隊の出撃前に覚醒剤、酒、タバコ、甘いものは欠かせない物だった様です。良く研究していた様です。これらは脳以外の細胞に悪影響を及ぼします。勿論脳にもです。中毒性がある物です。

 小麦や乳製品から腸内でモルフィネ様物質が作られます。モルフィネ言わずとしれた麻薬の成分です。中毒性もあります。

 砂糖や小麦、牛乳を止めた方が良いと言われるのは、あなたがアル中やヤク中を見てやめれば良いのと思うのと同じ気持ちで言われているのです。

 アル中に酒を止めろと言っても大抵聞きません。砂糖や小麦中毒も同様です。

 五十歩百歩、目糞鼻糞を笑う。中毒が悪い訳ではありません。ただ自分が中毒と自覚することは難しいのです。

 砂糖や小麦にも中毒性があり、身体を蝕む物だと認識が無い事が問題です。

 そんな物が誰でも手に入る場所にある事、知ら無いうちに中毒にされている可能性がある。物心つく前から中毒にされていた。それも親から、そんな悲劇がある。

 親を責めるのは止めましょう。悪いのは野放しにしている政府です。しかし政府が国民を守ると考えるのも悪い事です。歴史を見ればそんな事は無いと知っている筈です。

 ストレスがあるからだけでは無く、砂糖中毒だから小麦中毒だからストレスが強くなるのです。疲れたから、むしゃくしゃするから、嬉しいから、お祝いだから飲むアル中と一緒です。

 自分が知らず知らずに中毒にさせられたかもしれないと知る事、本来の自分の意思とは異なる行動を取っているかもしれないと自覚する事。これはストレスでしょう。雨漏りの原因を上を見て探さなければ解決しません。落ちて来た水を見てもどうしようも無いのです。今では無く未来の自分の為に。

「食えなんだら食うな」

関大徹という禅僧が書かれた本である。どこで知ったか忘れたが非常に良い本だった。

 「医者という商売は、絶対に死ぬ人間をつかまえて、なんとか死なぬように手立てを講じる、ないしは患者にそういう幻想を売りものにする商売であり、その商売人が人間は絶対に死ぬという当たり前のことを言ったら、その医者は理不尽にも、不誠実という烙印を捺されるであろう。やはり死ぬ話は坊主でなければならない。」

 という一節があった。色々と気づかされる文であった。医者なんて失業した方が良いと常々思っている、医者をしていると如何に自分が無力かを思い知らされる。人は必ず死ぬ、必ず治る治療法も無い。標準治療と言われる物がどれだけ治しているか疑わしいから私は不確実性の中に飛び込み模索をしている。治らないと言われる病気が治る事がある、何とかなると思った人が亡くなる事もある。

 人は必ず死ぬ、数秒後に死ぬかもしれない、50年後に死ぬかもしれない。「死ぬ話は坊主でなければならない」と書いてあるが今日では坊主には死んでから連絡する。チベット死者の書を読むと僧侶は生前から死後の話をする。

 チベット死者の書のDVDがある。患者さんが点滴をしながら選んで見ている事もある。病を得るとは何か?生きるとは業を重ねながら解消していく事。そして己の業など無い事を知る事。

 「病なんて死ねば治る」と言う章もあるが、これが言えない。まだまだだなと思う。

 興味ある人はご一読を。

私を離さないで

『私を離さないで』カズオ・イシグロの小説、久しぶりに小説を読みたいと思いふと買った本だった。

 本の裏表紙に書いてある程度の紹介だが。臓器提供の為に産まれた人の話だ。学校の様な所に同じ目的の為に産まれた人だけが集められ育ち、臓器提供をして生を終える。端的に書くとこれだけなのだが、小説ですからその中で様々な人の感情が描かれている。著者はこれから出てくる可能性のある人のクローン技術等から着想を得て書いたのだろうと思っていた。

 自分だったら違う選択をするだろうなと思いながら気がついた事、自分が置かれた状況に対して諦めという同調圧力をかけられながら生きているのは彼らだけでは無い。そして同調圧力に屈した人間は周りの人間に同調圧力をかける。見る度に嫌悪感を感じぜざるを得ない。

 臓器提供というテーマを使い本来人が持つ自由がもうすでに制限されている事を著わしたかったのでは無いかと思った。臓器提供をする為に作り出された人間を認める事、ひいては自分と違う扱いを受ける人間を認める事は人が平等では無い、つまり人の自由を他人が制約する事を許容するという事だ。まあ今も十分制約されているが。社会的には平等では無くとも神の前では平等である、死は平等に訪れるとか言い古されてきた。20世紀は人が王という物を作って以降、最も自由な時代だったのかもしれない。歴史上多くの国で民衆が自由を求めて戦い勝ち得た国もある。自由、平和、平等という民主主義の理念を世界に広め多くの人々が解放されたのも束の間、次に支配者が迫っている。従う事を否応なくさせる状況を作りながら。こんな事を考えさせられた本だった。

蜂刺され

 草刈り中に左手に痛みを感じた。飛び石にしては長いなと思いみてみると多分アシナガバチ。即座に振り払いその場を離れる。手袋をとると刺し口が見える。丁度三間の辺り。押しても何も出てこずポイズンリムーバー買っておけばよかったと後悔。

 家に戻り熱湯に浸けているとジンジンしてきたのでpH 14のアルカリ液を刺し口に垂らす。汗を流すのに湯を使い、その後コスモスのH1モードを照射すると時々ジンジンする。炎症を抑える筈なのにおかしいなと思いつつ、Apisを一粒飲んだ。良く良くみるとルビーが光る時に痛みが増す。これはダメだと思い真珠を腫れてきつつある場所に当て振動を与える。これは少し痛みが引く。まあしょうがないと思いモリンガバームを塗り、ガスを吸い炎症を抑える。

 この時点で刺し口は見えなくなってしまった。穴が有った方が良いのにと思いながら大腸に冷えが有ってそれを治そうとしているのかも、三焦を補おうとしているのかもしれない

 大して腫れないしまあいいか。蜂は殺してしまったがこの場所を刺された事は何か意味があるかもしれない。気がつくと草刈り中に感じた右股関節の違和感が消えている。万事塞翁が馬。蜂さんありがとう。

 山口醫院はアナフィラキシー起こさなければ蜂刺されも対応可。この文章理解できる人は変人です。

葬儀

 今月の始めに祖母が息をするのを止めた。これで私の祖父母が全て私の祖父母としての肉体を失った。 

日曜に祖母の通夜前に用を済ませ通夜の会場に出向くと、姪にかりゆしを着ている事を見咎められ「バカじゃないの。」と言われた。百寿を目前にした祖母の葬儀に喪服なんて「バッカじゃないの。」と言いたかったが喪服を着る歳でも無い姪っこには言わなかった。その後白いシャツに着替えた自分がバカだと思う。

 坊主は下手な経を読み、法要も省略だらけ、読経代は物価非スライド性で永年インフレ。そんな時代には紋付袴では無くアングロサクソンの猿真似喪服がお似合いだと思う。焼き場では髪が伸びた坊主もいた。まあ坊主が坊主である必要はない。葬式を執り行う坊主が坊主じゃないのに参列者が文句を言われる筋合いは無い。

 葬儀を終え家に帰り、ふとCDの整理をしようと色々なCDをみる。中学生の頃に買った物や学生の頃に買った物、友人がくれた物を見て最近聞かなくなったなと思う。昔は同じCDを飽きもせず繰り返し聞いていた。今は歌を聴く事も無いが、時折ラジオで聞く曲は下らないなと思う。

 音楽も人の言葉も自分の存在を主張する、そこに善悪は無い。自分が善と思う物があるだけ。人が死ぬ事を忌むのも、長寿を慶ぶのもその主体の思いに過ぎない。

 埋葬許可なんて物がある、人が死ぬと死亡診断書なんて物が必要になる。医者の唯一の専売特許。下手に死ぬと人の死が国家の名の下穢される。人の尊厳ある死は医師の支配の元でのみ。

 人が死んで漸く国家や社会という呪縛から解き放たれるのにそこにまで介入する。

 人が生きながら人を食い物にする国家や社会から自由になる事。これがブッダやキリストといった救世主の教え。

狂気

「年金詐欺」「通り魔」「トランプ大統領」ほぼ映画の世界。年金機構を語った詐欺師では無く本物の国の機関が詐欺。小学生の列に親父が包丁振り回して突っ込んでいく。トランプ大統領名前だけはネズミの国。実際はジェイソン。 詐欺師は捕縛され、官司の不正には天子から死を賜り、悪政には天誅が下される。これが当たり前だと水戸黄門を見て信じていた。凶刃の対象が弱者ではお話にならない、只の悲劇。人斬り以蔵が人斬り半次郎が子供を切っては只の犯罪者である。 こんな気狂いだらけの世の中を生きる「ありきたりの狂気の物語」学生の時に読んだブコウスキーの小説。遠い国の話だと思った。 国が行う事が破茶滅茶、国益を損なう事を平気で行う狗が行政府や立法府、司法府に溢れる。現実は小説より奇なりと言われるが小説では無く喜劇。統治者は気狂いか悪代官だらけそんな世に下々が正気でいては申し訳ない。米国でベトナム戦争への兵役拒否をした勇者の様に、我々も政府の要求に無条件で従うのは止める狂気の時代に入った。いつか地球の事を考えつつ日本の国益を守る統治機構ができる事を夢に見つつ。

八重山へ

八重山へ。石垣へ到着した夜より雷鳴轟く。泡盛と海ぶどう、もずくのお陰で雷神の庇護を得た私は知らぬ事だが一晩中稲妻が走っていたらしい。

 翌朝曇天の下、同行者に私が雨男だと言われながら船に乗り込み西表へ、海上は八重山なのか千葉なのか判別のつかない海の色。日本一のマングローブをボートで分け入り板状根を拝むと晴天に。

 西表でのガイドさんが語るには島の90%がジャングル、西表山猫が車で轢かれる事故が多く保護のために作ったトンネルのカメラに人が良く写るらしい。さてはイリオモテヤマネコは猫では無く人が化けて出た化身に違いないと思いながら由布島に牛車で渡る時には快晴に、由布島はかつてマラリアが無いという事で住人がいたが、台風と高潮が重なり島全てが浸水した後は無人島になったとの事。暑いと思いながら歩きマラリアを思う。Tシャツにショーツにサンダルで歩いていた、蚊の格好の餌食。今はいないが発症するのは帰ってからだし国内だから検疫も無いし何とかなるか。

 しかしこの地ではマラリアにより無くなった集落があったという。強制移住により移住させられマラリアに感染。あちらこちらで手作りの黒糖を売っているが全てはこれである。黒砂糖など主食になる筈もなく商業用の作物である。自分の食べる物では無く税として、金になる物として作ったサトウキビ。サトウキビ畑が全く違った様相を表す。

 由布島では白い砂浜を初めて歩いたがサンゴのかけらが足を心地よいより強く刺激をする。 竹富島へ移る海路は行きはとうって変わり青い空に、やはり私は雨男では無いと自信を持つが今日同じ場所にいる人間は数多く晴れ男は私では無い可能性が高い事も考えずにはいられない。一つ言える事は私は傘男では無い。雨が降っても傘を持ちたく無いから。傘男になるくらいなら雨男になった方がマシだ。

 竹富島は珊瑚の石塀と赤瓦の屋根、季節を問わず咲く花が目玉となり観光客が押し寄せるという。観光客の私が言うのも憚れるが観光客は島に金と煩悩を落としてゆく。私も普段、人の健康になりたいと言う煩悩を相手に商売する事がある。私は健康や病がより高い見地に立つための道具となればと思い仕事をしているがそうとはならない事も少なくは無い。

 竹富島の静かな生活を観る人により竹富島の静かな生活は破壊された。

 石垣島へ戻り御神崎へ日の入りを見に途中までは綺麗な夕日を見られたが、途中で雲に隠れてしまった夕日。夜は島の山菜を食べられる店に行き泡盛と各種山菜料理と豆腐料理を。山菜は薬草であり食物である。各土地に根ずく医食同源を学ぶ。

 帰りは運転代行を利用した。運転手は学校を出た後に日本各地へ行き仕事をした後帰って来たと言う。島にいても本土にいても将来が見えないなら島に戻る。閉塞感に満ち満ちた日本の現状が見える。

 翌朝シトシトと雨が降るなか宿の周りを散歩する。美しい花々、パパイヤやバナナ、海藻に恵まれた島でなぜサトウキビなど作らなければならないのかをオリオンと泡盛でトウフヨウになった脳で考えた。

 この日は石垣島でトライアスロン大会が行われており、参加者が泳いで自転車乗って走ってと何をしたいのか理解不能な事をしている為交通規制がかかっていた。己の生存能力を試したいなら交通規制の無い道路を運を信じ信号を突っ切って走って生き残った方が良いと思うしハブのいる原っぱを走った方が良いと思うのだがと思いなら笑顔で参加者に手を振る。私の罰当たりな考えの為か競技中雨が時折強くなりながら降っていた。私は規制を避けながら車で移動し石垣窯へ。石垣の海の色を再現すべく作った焼き物に魅入られ買ってしまった。この作者には煩悩の先が見えているに違いないと私の煩悩が語りかけた。全て煩悩の作り出した幻影かもしれない。

 午後には縁があり紹介いただいたお宅へ。石垣の歴史や文化、風習を教えて頂いた。

 その後川平湾へ美しい景色の下珊瑚をはじめとする海洋生物が激減していると言う。その原因は観光ビジネス。ああ私は何と罪深い存在なのか。『観光客』その罪深さに我が身は打ちのめされる。

 この自然豊かな八重山、季節を問わず果物は実を付け、珊瑚の海に魚が群れる。日々の糧を得るには本州より労苦は少ない筈である。サトウキビ畑は日々の糧では無く税のために作られた。本州に於いても米は作っても農民の日々の糧にはならなかった地域があると聞く。何故人が生きているだけで搾取をされなければならないのか?搾取をされたならそれに見合う物があるのか?人に基本的人権があるとすれば、最低限は只生きる権利である。日々歩き食物を見つけ食べて寝る。庵を結ぶくらいの権利と野で用を足す権利もあっては良いのでは無いだろうか?全ての人が何故金を稼がなければならないのであろうか?外で用を足すだけで罪に問われるなら人は猫に劣る生存権しか与えられていない事になる。

 人は自分の食べる物を探し生きる。自分が食べる物以上の物を得れば分ける。

 他人が儲ける物を作る。自分が生涯食べるに十分な物は得られない。しかし生きているだけで金を撥ねられる。サトウキビは撥ねられる為に作らされた物だ。

 世界の人々が生存権を奪われ、只生きるだけで労苦を強いられる社会。この縮図が美しい景色と共に見える。個人が生きる糧を得る権利を税という名目で奪う権利が為政者にあるのだろうか?島によっては人口増による税金を逃れるために妊婦を崖から落としていたという。平成は徴税率の上昇による消極的な口減らしが出生率低下として現れた時代であった。


   空とは空では無い、空に見えるだけ。

 人が認識できる物の多くはエネルギーです。触覚には温痛覚と振動覚が含まれこれは振動を感じます。振動は100Hzほどまで感じると言われます。熱や痛みを感じるのもエネルギーです。

 聴覚は20,000Hzまでと言われていますが、もっと高い音も感じると言われています。

   光もエネルギーです。人が光として完治できる周波数は限られていますが、光として完治できる紫外線は人の肌にエネルギーを与えビタミンDの合成をしたり、メラニンを作る刺激となり、度が過ぎると火傷の様になります。赤外線も目で見る事が出来ないエネルギーですが、熱として感じる事が出来ます。匂いや味は化学物質が受容体に着く事で感じますが、物質はそれぞれに振動をしています。これらの受容体もその様な振動を感知しているのかもしれません。

 人はこの世に存在する物全てを知覚できません。よほどの強さでなければ放射線を感じる事はありませんし、テラヘルツが話題になっていますが、この周波数も感じる事もありません。

 原子や分子も振動しています。量子も振動していますが人が感知する事は出来ません。

 人が発しているエネルギー、周波数もあります。人の臓器ごとに固有の周波数があり、人の脳波、心電図、筋電図も周波数です。人の感情にも周波数があると言われています。身体を動かせば周波数が出ます、声も周波数、楽器を演奏しても周波数、人の体からは赤外線が出ているとも言われています。

 気と言う物もあります。気が晴れる、気鬱、気が合う、気が合わない、気持ち悪い、気ちがい、正気の沙汰じゃない、気に押される、気に飲まれる、気負い過ぎ、気で勝る、気を呑む、気追いのない。この気は五感で感じる物ではありませんが、感じる物です。この気はエネルギーでは無いでしょうか。

 人以外にも使います、気の良い場所、薄気味悪い場所。気の立っている犬、呑気な猫。雨の気配、秋の気配。

 人は体外からの気、エネルギー、周波数と様々な呼び方がありますがこれらを感知し、影響されます。

 気に影響されないと言う方もいるかもしれませんが、突然大きな音がしてびっくりするとか、騒音の様な音楽を聴いてイライラするとか、政治家や官僚の国会答弁を聴いてイライラする、心地良い音楽を聴いて気が休まる、良い香りでホッとする。これらは外から来た影響です。

 更に言えばテレビやラジオ、インターネットの情報も周波数です。これらが人に及ぼす影響は計り知れません。喜怒哀楽全てが誘発されます。空中を飛び交う電波、電磁波、それらが受信機を通じてもたらす映像、音、情報。人は電波は電磁波を直接情報として感知する能力はありませんが、電磁波を厭う人もいます。

 人は感知できる範囲の情報しか認識する事は出来ません。私の目からパソコンのモニター間に埃が舞っていない限り空としか思えないのです。しかしこの空間には気体の分子が舞っています。更に照明やモニターから放出された光子が飛び交っているのです。その他様々な認識できない物質やエネルギーが蠢いているのです。

 何も無い様に見えて詰まっている空間がここにあります。

 そしてこの空間に影響を受けることも与える事も人は出来ます。

 空気それは空に見えて気の満ちた空間。いつも良い気分でいる事が大切です。

しとわ

 死とは?死と和、私と和。

 死の対義語として生があり、私の対義語として和がある。生が私を生み死が和をもたらす。

 人が自己という物を持った時に「し」という概念が生まれ、和を失い始める。私が強くなればなるほど生に執着が生まれ和から離れる。死を忌むほど生は希薄となり私が和を剋す。

 死は和への回帰であり、生は和からの別離である。生は私への回帰であり、死は私からの別離である。この対立する私と和の対立が無くなった時、人は生と死の対立から自由になり生を謳歌できる。

 生と死の対立は摩擦を生じ、死に至るかもしれない。しかし対立の先にしか光輪は見えない。生まれたのだから。